飯舘村 べこやの母ちゃん

生きる。今までも、これからも。

飯舘村 べこやの母ちゃん

出演:中島信子 原田公子 長谷川花子 監督・撮影:古居みずえ(『ガーダ パレスチナの詩』『飯舘村の母ちゃんたちー土とともに』)編集:新谷拓治 整音:Cinema Sound Works Co.(渡辺丈彦)製作:映画「飯舘村の母ちゃん」制作支援の会 配給協力・宣伝:リガード 2022/日本/180分/日本語/ドキュメンタリー c? Mizue Furui 2022
飯舘村の女性たちを追い続けてきた古居みずえによる10年の記録(ドキュメント)ーー渾身の3時間



予告編
イントロダクション
全村避難を余儀なくされた飯舘村で牛(べこ)と共に生きてきた母ちゃんたち 家族との暮らし、愛しい牛(べこ)たち、住みなれた故郷… 何かを守り、何かを手放し、揺れ惑いながら希望を捨てずに生きてきた心の軌跡
全村避難を余儀なくされた飯舘村で牛(べこ)と共に生きてきた母ちゃんたち 家族との暮らし、愛しい牛(べこ)たち、住みなれた故郷… 何かを守り、何かを手放し、揺れ惑いながら希望を捨てずに生きてきた心の軌跡
豊かな自然に恵まれた福島県相馬郡飯舘村。
かつてはブランド牛の生産地として知られ、酪農も盛んでした。
しかし、福島第一原発事故後、放射能汚染が懸念された飯舘村の牛たちは牛乳の出荷も、移動も、牧草地の草を食べることも禁止されます。さらには、2011年4月に全村避難が決定。村民の多くが暮らしと生業を突然うばわれてしまいました。2017年3月には帰還困難区域を除く全ての区域で避難指示が解除されましたが、6年という年月はあまりに長く、帰村した村民は約2割※にとどまっています。(※2022年12月現在)
牛を続けた人、やめた人。飯舘村を離れた人、戻った人。
この間、一人ひとりが大きな人生の選択をしてきました。牛(べこ)とともに生きてきた母ちゃんたちも、どん底の思いをしながら、それぞれが悩み、苦しみ、ときには笑いながら生きてきました。
その強さと逞しさに惹かれたのはパレスチナの女性たちの取材を長年続けてきた古居みずえ監督。福島に拠点を構え、故郷、生業、家族のはざまで揺れる飯舘村の女性たちの心情を丁寧に記録。10年以上の撮影・制作期間を経て「第1章 故郷への想い」「第2章 べことともに」「第3章 帰村」の全3章・3時間に及ぶドキュメンタリーを完成させました。
各章のあらすじと出演者
第一章:故郷への想い |中島信子さん(比曽地区)
「うちにいるよ」ってここ(飯舘)でならすんなりと出るの。なぜか不思議だな
戦後、両親が開拓した土地で45年もの間、酪農と繁殖の仕事に携わってきた中島信子さん。手塩にかけた牛を泣く泣く手放し、隣市の仮設住宅に避難。週の半分、夫とともに飯舘村へ通いながら、故郷に戻れる日を待ち続けていた。年々募っていく故郷への思い、かつての暮らしへの郷愁。しかし、除染作業後も下がりきらない放射線量と、石まじりの砂が撒かれた畑を前に気持ちが揺らぎ始める…。
第二章:べことともに |原田公子さん(飯樋地区)
牛飼いは二人三脚でないとできないの。お互いに同じ方向を向かないと
酪農と繁殖農家としてたくさんの子牛を育ててきた原田公子さん。仲間たちが廃業を選択する中で、自分の意思をつらぬき牛とともに新たな土地に移る。放射能の心配はなくなったが、新生活には別の不便や苦労も。時にぶつかりあいながら、夫と二人三脚で牛飼いの道を歩む公子さん。彼女が決して牛を手放さない背景には、事故当時に十分な世話ができず死なせてしまった牛たちへの後悔の念があった…。
第三章: 帰村|長谷川花子さん(前田地区)
じゃみんなで飯舘に帰ろうねって言ったの
酪農家として義両親と夫、息子家族の8人で暮らしてきた長谷川花子さん。息子家族と離れ、仮設住宅で義両親と4人暮らしに。飯舘村に帰りたい義母、花子さん夫妻に任せると言う義父、息子家族と一緒に暮らしたい夫。それぞれの思いが交錯する中、飯舘村への帰村を決意。先祖代々の土地と故郷を守るため、新たなチャレンジに取り組み始めた矢先、夫が病に倒れ…。
監督
プロフィール
古居みずえ
1948年島根県生まれ。アジアプレス・インターナショナル所属。
1988年よりイスラエル占領地を訪れ、パレスチナ人による抵抗運動・インティファーダを取材。特に女性や子どもたちに焦点をあて、取材活動を続けている。他にもインドネシア、アフガニスタン、アフリカの子どもたちを取材。新聞、雑誌、テレビなどで発表。
2007年、映画『ガーダ パレスチナの詩』制作。第6回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞。第12回平和・共同ジャーナリスト基金第1回荒井なみこ賞受賞。2011年、映画『ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』制作。坐・高円寺ドキュメンタリー大賞受賞。2017年『飯舘村の母ちゃんたちー土とともに』制作。第18回全州国際映画祭正式招待。本作は『飯舘村の母ちゃんたち』シリーズ第2作にあたる。
メッセージ
2011年3月の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故。私は今までに見たこともない甚大な被害に何をすべきか見失った。仲間の車に同乗させてもらい、宮城や岩手の被災地を訪れることが出来た。被災地の家々の瓦礫の山を見た。避難所にも足を運んだ。しかしそれでも私は何をすべきかわからず、1カ月が過ぎていった。
4月の終わり近く、飯舘村の全村避難のニュースが飛び込んできた。中東のパレスチナに長年通ってきた私には、故郷を追われる飯舘村の人たちの姿が、70数年を難民として生きてきたパレスチナの人々の姿と重なった。それぞれ自分の人生を180度転換させられる事態。飯舘村の人たちがどのように自分の生き方を変えていくのか、どのような人生を歩んでいくのか私は気になった。
放射能汚染が懸念された飯舘村の牛たちはミルクを出荷することも、移動することも、牧草地の草を食べることも禁止された。私が飯舘村に行ったときは、ちょうど酪農家の方々が、酪農を休業し、長年可愛がっていた牛たちを屠畜に出す日だった。
べこやの母ちゃんは子牛にミルクを与え、愛情込めて育て上げる。大きくなったら、雨の日も風の日も一日も欠かさず、乳しぼりをする。3人の母ちゃんの生き方は違うが、どんな状況下でも強く、たくましく生き抜いていく姿を描きたいと思った。3人のべこやの母ちゃんたちの人生を通して、原発事故は何だったのか、人々に何をもたらしたのか、考えるきっかけになればと思う。